展覧会で見た作品をまとめる:ギュスターヴ・クールベさん
こんにちは、アートブロガーの町平亮(マチ ヘイスケ)です。
こちらは備忘録のために書いています。詳しくは※1をご覧ください。
少しずつでも内容の濃い、楽しめるページにしていければと思っています。
どうぞよろしくお願いします。
※表示順は〈作品名〉・制作年・形態(高さ×横)・収蔵先です。その下に作品に関する内容を書いています。行った展覧会や買ったグッズなど。作品の記載順は制作年によります。なお、誤字脱字や記載内容に誤りがある場合には教えて頂けると嬉しいです。
〈牝鹿のいる雪の風景〉1866~69年、油彩・カンヴァス(46.3×55.6cm)、ポーラ美術館
2019年8月(ひろしま美術館)「印象派、記憶への旅」展。
〈雪の中の鹿のたたかい〉1868年、油彩・カンヴァス(60×80cm)、ポーラ美術館
〈波、夕暮れにうねる海〉1869年、油彩・カンヴァス(74.5×90.9cm)、ヤマザキマザック美術館
2019年9月(島根県立美術館)「黄昏の絵画たち」展。
〈波〉 1869年、油彩・カンヴァス()、島根県立美術館
2020年9月(島根県立美術館)「コレクション展」。
〈海岸の竜巻(エトルタ)〉1870年、油彩・カンヴァス(65×81cm)、横浜美術館
2019年8月(国立西洋美術館)「松方コレクション展」。
〈波〉1870年頃、油彩・カンヴァス(72.5×92.5cm)、国立西洋美術館
2019年8月(国立西洋美術館)「松方コレクション展」。
〈レマン湖の岸辺(急流)〉1875年頃、油彩・カンヴァス(61.5×50.1cm)、ランス美術館
2020年9月(島根県立美術館)「ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ」展。
noteで記事を書いています。
上記のように関連するときにはリンクを貼り付けていますので、よかったら見てください。
=======================================
〔作家解説〕(図録などで紹介されている文章の引用です)
『ポーラ美術館×ひろしま美術館 印象派、記憶への旅(青幻舎)』図録より
1846年のオランダ旅行の際、レンブラントの絵画と出あい、同時代の現実社会と人間の諸相を率直に描き出す写実主義に向かっていく。1855年、《画家のアトリエ》(オルセー美術館)がパリ万国博覧会美術展に出品を拒否されたため、会場近くで個展を開催した。彼の絵画をめぐる権力への反抗は、印象派など後の世代の画家たちの模範となった。
『ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ』図録より
1839年に法律を学ぶためパリに出るが、画家を志して新古典主義の画家シャルル・ストゥーバンのアトリエなどで学ぶ。1844年にサロン初入選。1850‐51年のサロンには《オルナンの埋葬》を出品するも、故郷の庶民の姿を堂々たる歴史画の形式で描いたことにより批判を受ける。1855年には《画家のアトリエ》などの出品をパリ万国博覧会から拒まれたこtに抗議するとともに、現実を理想化することなく直截的に表現する写実主義を宣言した。1871年のパリ・コミューンの先導者として投獄され、後に亡命したスイスで没している。
『黄昏の絵画たちー近代絵画に描かれた夕日・夕景ー』図録より
フランス東部フランシュ=コンテ地方オルナンの富裕な地主の家庭に生まれる。パリのアカデミー・シュイスに通い、1844年のサロンで初入選。1851年のサロンに《オルナンの埋葬》《石を割る人々》などの卑近な主題を大画面で表した野心作を発表し、レアリスム(写実主義)の画家として注目を集める。1855年のパリ万国博美術展では主要作品の出品を拒否されたため、会場の近くで個展を開催し、対抗的な態度を示した。1857年以降は狩猟画や風景画を数多く手がけ、広く受け入れられていった。1871年、パリ・コミューンに参加し、コミューン敗北後に入獄、その後スイスに亡命した。スイスのラ・トゥール・ド・ペルスで没。
*1:展覧会を見たあとの記憶をどうにか残していきたいと思って、このようなページを作りました。あれっ、この作品どこかでも見た、と思ったときに辿っていけるように。読み物としては面白みはないですが、続けた先に何かがみえるかもしれないと思って続けていっています。